1999年11月30日 火曜日

農協月へ行く 筒井康隆  角川文庫 昭和54年

 筒井康隆の露骨な力強さにはもう飽きれるばかり。凄いとしか言いようが無い。でもこういうの、嫌いな人は本当に吐き気がするほど嫌いなんだと思う。
 悪漢(ピカロ)小説は良い。でもやりすぎだろ、と思ってしまうのが普通の人だと思う。ちなみにオレは普通の人。この本読んでると気持ち悪くなってくる。否定的な意味じゃなくて。上手く言葉にならないので、解説を引用する。
 「筒井氏の作品においては、愛や豊穣さや神聖といった要素、悲劇につながるあらゆるものは、いつもきわめて注意深く排除されている。生成、成長のベクトルがとりはずされている。人間と人間を結びつける絆は意識的に切断され、すべての人間は自己保存の本能だけをふんだんにかかえて孤独である。疎外は、ここでは、永遠に癒されることのない人間の冷厳な状態である」、そうです。
 どういう作品かという事を、極めて簡単に言えば、「長いぽんち文」。レトリックに満ちた、根源的な欲望に忠実な、エネルギーの結晶のような文章。とにかく凄いです。


1999年11月29日 月曜日

古本綺譚 出久根達郎  中央公論 1990年

 古本に纏わる現実とも幻ともつかない、本を愛し本にとり憑かれてしまった人々の話。短編集のようになっている。普通の短編集は、同じ位の長さの読み物の集まりだが、これは2番目の作品だけ飛びぬけて長い。あちこちの雑誌に連載していたものを集めたのだろうか。よく分からない。
 古本というのは、新刊本と違って不思議な魅力があるのは確かだと思う。本の内容云々ではなくて、その自分が手にした本が自分のところに至って来た経緯が、それ自体一種独特な雰囲気を持つ。だから古本に憑かれる人の気持ちもよく分かる。
 この本の中に書かれていたわけではないけれど、古本屋を使った遊びの一つに「端本集め」というものがあるそうだ。これは全巻が揃っていない全集を、いろんな古本屋で一冊ずつ買い集めてきて、一つの揃った全集にするというもの。ジグソーパズルのようなものかな。全巻揃ったときの嬉しさはひとしおだろう。普通揃えるのに、軽く十年単位でかかるそう。
 そんな、多少きちがいじみた人々と、毎日顔を合わせるのが古本屋の主人。自分も変人じゃなかったら勤まらない仕事なんだろうなあ。憧憬。


1999年11月27日 土曜日

覆面作家の夢の家 北村薫  角川文庫 1999年

 読書日記を更新するのも久しぶり。卒論卒論で珍しくちょっとだけ忙しかったから。本当は、卒論を書くために読んだ本も面白いのがたくさんあったから、それらも書きたいんだけど手に入りにくい本が多すぎて。昭和一桁の、三円五拾銭の本なんて、普通無いでしょ。それも三千部しか刷ってなかったり。でも、なんだかんだ言って、卒論書くのは面白かった。
 話は変わる。この本は、電車に乗るのに読む本が無かったからキオスクで買った。赤川次郎みたいな、読み終わったら即くずかごへ、っていうような、寿命の短い本のつもりで買ったんだけど、いやいやどうして。そんな事も無い。
 北村薫は、本格原理主義者と言われているようで、本格ミステリーを愛する御仁です。彼が書く本は、どろどろした男女の痴情の縺れから起こる殺人事件とは全く無縁で、日常の些細な事が主題になっていることが多い。読み終わって心が暖かくなるような、優しいタッチです。人が死ぬこともあんまり無く(この本の中では一人死ぬけど)、のほほんとした感じが売りみたいな。普段の生活の中で、よく有るようなものから、創造を逞しくしていきます。それが、謎解きの王道であり、「何故、どうして、理由が知りたい」という感情を、かきたたせてくれる。
 彼に言わせれば、「<そんなことはくだらん>といわれると、子供の笑顔にも、空の雲にも、気づかずに足早に行き過ぎる人を見るような気になる」そうです。でも、オレも全くその通りだと思います。日常の中にある、ほんのわずかな、とてもささいな素敵なことに気づかないほど、毎日の生活に追われるようにはなりたくないなあと思うけど、社会人になったらそうもいかないんだろうなあ。


1999年10月18日 月曜日

『蛇を踏む』 川上弘美 文春文庫 1999年

 まずは恒例作者紹介。お茶の水女子大学理学部卒業。作家って以外に理系の人が多い。「おいら」のお父さんも確か理系の人だったと思う。94年『神様』で第1回パスカル短編文学新人賞を受賞。96年『蛇を踏む』で第115回芥川賞受賞。
 『蛇を踏む』は、蛇を踏んだ次の日からその蛇が自分の母親を名乗って部屋に居つくという話。自分にはちゃんとした母親が居るし、その母親はまだ生きている。何の事かわからない。
 結局最後まで何の事かわからなかった。最近はこのような小説を読んでいなかったので少し面食らった。とても不条理な内容で意味がよく掴めない。掴めないまま、読み終わってしまった。読後感が劣等感を感じさせる(負けました的な)小説。感想も書きようが無い。
 芥川賞か。なるほど。


1999年10月16日 土曜日

『グリーン・マイル』 スティーヴン・キング 白石朗訳 新潮文庫 1997年

 アメリカでは連載小説と言うものがあまり無いらしく、昔ディケンズ(イギリス??)が月に一回ずつ連載小説をペーパーバックで発表してかなりの話題になったそうだ。『グリーン・マイル』はキングがそのディケンズの形式を真似したもの。この形式をとれば読者はどんなに続きが読みたくともじりじりしながら、そしてあれこれ続きを想像しながら一ヶ月を待つしかない。アメリカでこの形式が受け入れられ大ベストセラーになり、翻訳する際もキングがこの形式を取るように強く要請したために、日本でもアメリカに倣って月に一回の発表になった、らしい。私が買ったときは発表されてからとうに月日が断っていたため6冊一度に買った。何の意味も無し。キング敗れたり。
 薄っぺらい本を6冊買ってせめて3冊にまとめてあればもっと安かったのにと、普段は古本しか買わない私は少し渋ったのだが、値段相応の内容だった。キングは天才だ。よく彼のストーリーテリングの妙をもてはやされるが、当然それだけではない。最も驚かされるのは作品の根底に常に流れている恐怖だ。それもホラー小説(彼はたくさん書いているが)の恐怖ではない。日常に満ち溢れている、彼の言葉を借りれば「毎日世界中で起こっている」、恐怖。
 双子の女の子が強姦され殺される。彼女達の悲鳴を聞いたものは誰もいない。なぜか。犯人は一方に「騒いだら妹を殺す」、もう一方に「声をあげたら姉を殺す」。二人は「愛のため」に静かなまま殺される。誰も気づかない。
 そんなことが毎日世界中で起こっているのかと聞かれれば、起こっているとも言えぬし起こっていないとも言えない。唯言えるのは、今までに起こったことはあるしこれからも起こり得ると言うことだ。高村光太郎の詩で「火は家や家族を焼き、人に温もりも与える」というのがあったけれど、人間もその様な矛盾を孕んだ存在だ。
 結局はハッピーエンドで終わるのだが、いつも思うけれどこれが一番いい。いろいろあるかもしれないけれど最後はそんな矛盾を全部抱えたまま生きる喜びが与えられる。だからまた本が読みたくなるし本を読む意味がある。じゃなければ、やってられません。


1999年10月7日 木曜日

『青春漂流』 立花隆 講談社文庫 1988年

 これも友人に薦められるままに買った。だから立花隆は嫌いなんだって、顔が。でもこれは、前に読んだやつと比べるとだいぶいい。彼はルポライターとしての才能はかなりあると思う。
 この本は、11人の人との、いわば対談集。11人はその道のプロフェッショナルで(例えば鷹匠や手作りナイフ職人、精肉職人といった世間から見ると一風変わった職業についている人達)、その道に入ることになった経緯などが詳細なインタビューを元に書かれている。結局はその苦労話のようになってしまっていて、彼らの特殊な経験が自分の参考になるかといえば、必ずしもならないとは思うけど、単純な読み物としては面白い。よく言われる「レールの上の道」というやつを歩んでしまっている自分を、悪いとは思っていないけれども、ドロップアウトした人達の、それも金銭的には豊かとは言えないかもしれないが、充実した生活を送っている人達の、生の声が聞けるのは、とても興味深いものがある。「がんばればどうにかなるさ」ということ意外には、何の役にも立たない話が詰まっているだけなんだけれども。


1999年10月5日 火曜日

『燃えよ剣』 司馬遼太郎 新潮文庫 昭和47年

 北海道で五稜郭を見学した際、土方歳三の写真を見て、そのあまりのカッコ良さに思わず買ってしまいました。『罪と罰』を読まずにずっとこっちを読んでいたんだけど、いつのまにか下巻がどっかにいってしまって最近発掘され、読み終わりました。
 土方はかっこいい。とにかくこの一言に尽きます。そんなのかっこよく書いてあるんだから当然じゃん、とか言ってはいけません。まじでかっこいいんです、生き様が。顔もだけど。
 司馬遼太郎は、あまり読んだことは無かったんだけど、完成度はすこぶる高い。当たり前か。でも、本当にすごく面白い。そして読みやすい。時間つぶしにはおすすめ。って、時間つぶしている場合じゃないんだけどね。卒論の本読まなきゃ。


1999年10月2日 土曜日

『ぼくはこんな本を読んできた』 立花隆 文芸春秋 1999年

 友達に薦められるままに買ってしまった。立花隆のことはあまり知らないんだけど、前にテレビに出ていたときに、へたくそな英語をしゃべっていた記憶があるので、あまりいいイメージは無い。
 それもあったのかもしれないが、初めの公演を文章化したものから嫌気が差す。確かに凄いことをやっていて、そのやってきた仕事も世間的に認められているわけだから、アンタもすごい奴なのかもしれないけど、エラ振り過ぎ。というか、何が嫌いって顔が嫌い。こいつに対してなんでこんなにも拒否反応を起こすのかはよく分からないが、もしかしたら嫉妬してるのかもね。
 本には二通りの読み方がある。それ自体が目的の読書と、手段としての読書。前者は文学書などがそうだし、後者はビジネス書や自然科学書みたいなものがそう。立花隆は、後者について書いている。それは別に彼が文学を読んでいないと言うわけではなくて、(この本の中に彼が中学三年の時の作文『ぼくの読書を顧みる』と言うのが載っているが、それは本当にすごい。小学三年で漱石、小学校高学年でディケンズなど)、手段としての読書が仕事と密接にかかわってくるからだと思うんだけど、でも少なくともオレは、曇った現実世界をクリアにするために本を読んでいるわけではなくて、その現実世界から逃避するために本を読んでいるのであって、彼の本の読み方はオレの読み方とはあまり合わない。日常で非日常、もしくはつくられた日常を疑似体験するために本を読む。彼の読書と比べるとかなりネガティブだが。
 オレは読んでいて、だんだんいらいらしてきてしまったが、軽いエッセイ風に読むとおもしろいのかも。べつにエッセイ風に読まなくても、好きな人には好きなんだろうけど。


1999年9月28日 火曜日

『スティル・ライフ』 池澤夏樹 中央公論社 1991年 

 中央公論新人賞、芥川賞受賞作。短編集。表題ほか『ヤー・チャイカ』収録。
 『ヤー・チャイカ』は部分的に読んだことがあった。どこで読んだか、いつ読んだかは分からない。以前読んだ彼の著作『南の島のティオ』も、部分的に読んだことがあり驚いたことがあったが、この作品でもそう。一体どこで読んだんでしょ。全くもって不明。
 以前から思っていたが、池澤は”理科っぽい村上春樹”っぽい。とても不思議なことを書いている(不思議な雰囲気を持ったことを書いている)割に、曖昧ではない。理路整然としている。これは前にも書いたか。とにかくその不思議な雰囲気が、村上春樹の小説に漂っている感じと似ているな、と。そんだけ。この本は面白いよ。


1999年9月23日 木曜日

『罪と罰』 ドフトエフスキー 新潮文庫 昭和六十二年

 この本は、北海道で暇なときに読もうと思って買ったものなので、読み終えるのに1ヶ月以上かかってしまった。別に取りたてて読み難い本と言うわけでもないけれど、なかなか読み終わらない。その一番の理由は、面白くないからということに尽きると思う。
 くだらない、とは言わないけれど、これがそんなにすごい小説か、とは思う。設定もありふれているし、主人公のラスコーリニコフの心理描写も多少神経症できちがいじみたところはあるけれど、いたって普通で、ラスコーリニコフにはあまり感情移入することができなかった。スヴィドリガイロフというニヒリストが登場し、最後のほうで彼が一人称になる部分があり、そこの描写は単純に凄いなと感じた。あとラストはいい。このような終わり方は、とても好きで、救われる感じがする。結局オレの好みは、B級のアメリカ映画のようなハッピーエンドなんだろう。


1999年9月15日 水曜日

『虫けら太平記』 色川武大 文春文庫 1992年

 麻雀小説では阿佐田哲也(朝だ!徹夜)のペンネームで知られるが、彼が純文学のようなものを書くときは、こちらの本名を使う。この作品は、彼が急逝したため、未完に終わった。
 『麻雀放浪記』が有名過ぎるために、本名のほうを知らない人も多いが、池澤にならって経歴を挙げて行くと、36年に『黒い布』で中央公論新人賞、52年に『怪しい来客簿』で泉鏡花賞、53年に『離婚』で直木賞、57年に『百』で川端康成文学賞、平成元年に『狂人日記』で読売文学賞を受賞と、大変なことになってる。
 たくさん賞を取っていればすごい作家、と言うわけでもないだろうけど、この受賞歴は圧巻。彼はオレのもっとも好きな作家の一人なので、これだけ認められているというのは、大変うれしい。でもその影に隠れて阿佐田のほうが、完全に娯楽小説としてしか扱われていないのには、少々不満だなあ。『麻雀放浪記』は題名からして娯楽小説の態だけど、内容はすごいよ、人間ドラマだよ。あ、だから娯楽小説なのか。うーん。
 彼は、旧制中学を無期停学になってしまって、それはガリ版刷りの戦争批判の新聞を発行したかららしいんだけど(そのうえ、彼の父親は退役軍人で、恩給によって生活を立てる身だった)、その無期停学っていうのは、退学よりも厳しい処分で、退学ならば他の学校に復学することが出来るけど、無期停学では出来ない。宙ぶらりんの身分のまま、戦後の混乱期をアウトロウな生き方で切りぬけ、「戦後最後の無頼派」と呼ばれた。過酷で不摂生な生活が祟ってか、ナルコレプシーという奇病を患う。この病気は、歩いていようが、食事をしていようが、所かまわず暴力的な睡魔に襲われ、いつでもどこでも眠ってしまうと言う病気で、幻覚も見えるらしい。そういう病気に常に犯されつづけながら、これだけの本を書いたのだからすごい。とにかくこいつはすごい奴。だから、彼の本を一冊も読んだことが無い人は、ぜひ読んで欲しいです。今まで書いた読書日記の中の作家では、ブッチギリで一番すごい人。いや、まじで。


1999年9月10日 金曜日

『マリコ/マリキータ』 池澤夏樹 文春文庫 1994年

 短編集。4作収められていて、はじめの3つはたいしたことはないんだけど、最後の1編は、これぞ池澤の真骨頂と言う感じがする。
 池澤夏樹を知らない人のために、簡単なプロフィールを書いておくと、『スティル・ライフ』で中央公論新人賞と第98回芥川賞、『マシアス・ギリの失脚』で谷崎潤一郎賞なんかを受賞している、結構すごい人です。埼玉大学工学部中退です。北海道の人らしいんですが。
 この本はいつものように古本屋で買ってきた本なんだけど、栞がはさんであって、その栞の裏に鉛筆で外国の景色が書かれていた。リトルインディアと書かれてるんだけど、何のことかはよく分からない。よく分からないけど、いいよね。きっとこの本は、いろんな所に旅している本なんだな、きっと。オレも八丈島で読んだし。
 彼の描写はいわゆる「理科系的」と言われるもので、たまに読んでいて飽きれるひどく曖昧で細部を省いてしまう文体とは全く無縁で、彼が扱っているテーマはとても神秘的な内容なのに、正確な観察と数学に裏付けられたディティールが確かな存在感を持っていて、なんて言うのかな、うそ臭さが無い。
 彼の著作の『マシアス・ギリの失脚』なんて本当に好きな本なんだけど、池澤夏樹を大好きと言うわけでもなくて、その理由として一番大きなものは、エッセイがつまらないから。エッセイが面白くないと、その人に人間的な魅力を感じない。だから、遠藤周作なんかはオレの中では最も偉大な作家の一人だな。
 この短編集を読んで、というか短編集を読んでいるときにいつも感じるのは、一つの話が短いから、つまらない話を読んでもすぐ終わるから良いな、ということ。特にこの本は最初の3編はそれほど面白い話ではないので、最後の1編だけ本屋で立ち読みしてもいいと思う。30分もあれば読み終わっちゃうからさ。


戻る